SSブログ

ヒポクラテスの木の下で [書斎の本棚]

二次小説です。






ヒポクラテスの木の下で「ちょっと、病室を廻ってくるね」
「はい、先生」


金田は看護士の畑中琴絵に声をかけて診察室を出た。
多くの患者さんがこの敬明会病院に入院していた。
分け隔てなく、金田は患者さんやその家族と接しているが、金田にとって今日一番気になることは、救急車で運ばれてきた中村秀雄の事だった。




確かにヘモグロビンの値は下がっていたが、昏倒するまでとは想像していなかった。
胃の出血は止まったが、貧血が酷いので家族の了承を得て輸血を行った。
今回は大事に至らなかったが、確実に病気は秀雄を蝕んでいた。


やや考えすぎの面もあるが、最大の理解者を得て、秀雄の毎日は充実しているのを金田は常に聞かされていた。


年明けの定期健診の再検査から、短い間に様々なことが秀雄を、そして金田を駆け抜けた。
突然の宣告に自殺を試みた秀雄。それを金田は思い留まらせた。

それは金田の信念でもあり、医師として当然のことでもあった。
秀雄のことだけでなく、これまでも、これからも、外科医として人の死から遠ざかる事は出来ない。

自ら発する言葉は、患者さんや、その家族に大きく影響する。
軽妙に聞えがちだが、慎重に言葉を選んでいた。


中村秀雄に関しては、金田の経験の範囲を大きく超えて動いていた。
生きる続けることを決心した中村秀雄は、懸命に充実した日々を過ごそうとした。
残り僅かとなった人生を豊かなものにしようとして、却って空回りした。
でも、少しずつ周囲に理解者を得て、意識しなくても豊かな毎日が訪れていた。


彼の行動は、金田の信念を確信させると同時に、医師としての限界に苦悩させた。
どんな患者さんでも、自らの術で助ける事が出来ればどんなにいいことか・・・。
一人の患者さんだけ、特別視してはいけない。
そう分っていても、金田は懸命に生きる中村秀雄を誰よりも助けたかった。
そして、他の誰よりもそれが不可能であることを知っていた。
彼が診察室に訪れるたびに、金田は秀雄の話を聞いてきた。


『充実した毎日を過ごす事』
『結婚は無理だという事』
『母親にみどりさんが婚約者だと勘違いされた事』
『病気のことを打ち明けられなかった事』
『結婚を決意した事』
『合唱を通じて生徒に伝えたいことがある事』
『遺影の事・・・』

聞けば聞くほど金田はジレンマに陥っていた。




入院病棟に着くと最初に秀雄の病室をノックした。

ブラインド越しに西日の射す病室に、秀雄とみどりがいた。
金田を見て、みどりは椅子から立ち上がった。
先程みどりには病状を説明してあった。
みどりは比較的落ち着いた様子だった。


「まだ、眠っているみたいだね」
「はい」
「何かあったら呼んでください」
「はい」

金田にとって、この様なことは今まで幾度となく繰り返したことだった。
だが、金田は落ち着かなかった。
それに気付き、ぎこちなく笑って病室を出た。


金田は気合を入れなおして、他の病室を回った。
いつもどおりに患者さんに接し、冗談を飛ばしたり、檄を飛ばしたり、叱ったりした。




一通り回診が終わり、診察室に戻ろうとした。
そのとき金田の耳に、何かが聞えてきた。
完成されていないが、何かメッセージを含むように、ゆっくりと丁寧に・・・。
沢山の声が重ねあわされていた。
その合唱が何であるか、金田は気がついた。


思わず振り返り、笑った。
そう、間違っていない。そう確信した。
医師として出来る事を全て注ぐ。
人として、懸命に生きようとする人を応援する。

金田は夕日の中で、しばらく暖かい歌声に包まれていた。



4489078.jpg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

波動星に祈る、心に誓う ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。